どつぼ超然
どつぼ超然
町田 康
毎日新聞社 2010-10-15


あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
「おれは小説を読んでいると思ったらいつの間にかエッセーになっていた」
催眠術だとか超スピードだとか(ry

みたいな感じ。小説だと思ったらエッセーだった。私はほとんどエッセーというものを読まない、むしろ避けて通っているので、ほんとにびっくりした。最後の方になるまで気付かなかった。だって本文に書いてあるんだもんね……

田宮に住みたい(現実では熱海?)という動機で引っ越しをして、それを機に超然と生きようと決心した私・改め「余」は、寛一お宮っぽい銅像を眺め、浜辺で浴衣でビーチボールに興じている若人達を眺め、死を決意し、どうせ死ぬなら静かな島で死のうとフェリーで島に渡るが、今度はロープ、踏み台などの必要不可欠な道具を見つけることができずにリゾート島を徘徊し、なんか悟ったから死ぬ止めて生還しよう、みたいな展開が単行本一冊分続く。すげーな、町田康。でも私は小説が読みたかったのであってエッセーが読みたかったのではない。失敗した。でも読むのを止めることも出来ない。何故ならこれがエッセーだという確証もないから。でもなあ……

こんな逡巡に陥ったとき、主人公である「余」であれば、「エッセー、善哉、善哉」と呟いて超然たる態度をとり続けることが出来るのである。なぜなら死を乗り越えて超然たる生き方を手に入れたから。くだらねー事にいちいちかかずらって絶叫したりしなくてもよいのである。なぜなら余は超然としているから。

しかし熱海に引っ越せばこんなおもろい体験が出来るのか。町田康ならどこに引っ越してもこのくらい世の中を面白く見ているような気がしないでもないが、やっぱりなあ、喫茶店に入って本を読もうと思ったら隣におばちゃん5人組が来てでかい声でしゃべくり初めても、うるせえなああああと絶叫するのではなく、その花死に耳を傾けていちいち突っ込みを入れてみるくらいの心の余裕は必要であるなあ、と思った。忍耐するのではなく超然とおばちゃん五人組を見下ろさないといかんなあ。いいじゃん、超然。善哉、善哉。
ゴランノスポン
ゴランノスポン
町田 康
新潮社 2011-06-29


最新作ということでしたので衝動買い。やっぱり町田康の神髄は短編にありと私は思う。
収録作品は「楠木正成」「ゴランノスポン」「一般の魔力」「二倍」「尻の泉」「末摘花」「先生との旅」。

中でも一番印象に残ったのは、後味最悪の「一般の魔力」。高校生の娘を持つごく一般的な夫婦が、隣家の草ぼうぼうの庭が我が家の庭を侵食してくるのに腹を立て除草剤をまいて結果隣家の猫がそれを喰って死亡、なんか保障とかめんどくさいんで隣家が一家総出で家を空けているのを幸い猫の死体を捨てに山奥までドライブ、そこで捨てられた可愛い子犬にサンドイッチの残りを与え懐いてきた子犬たちをでも育てられないからね強く生きろよと山中に放置、帰宅後新聞に投書した子犬の話が掲載されて鼻高々の夫、ねえあの犬どうしたかしらね「ああ、死んだだろう」そしてさわやかな気分でテレビを見ていると女子高生が殺されて山の中に放置されていたのが発見されたというニュース、追い打ちの娘は大丈夫なんだろうな、大丈夫よ何日か前に電話で話したときは友達の家に泊まってるって言ってたような気がするし……
そして、夫婦の家の一般的な電話機が、一般的な着信音を立て始める。どちらも顔を見合わせ、受話器を取り上げられないでいる……

後味最悪。「尻の泉」と「楠木正成」は半笑いで読めたけど、これはちょっと……猫死んでるし……犬も多分……そしてついでに女子高生も……「ゴランノスポン」のラストも集つだったと思うが、まだちょっと笑いを挟む余地があった。町田康の短編はなんかこういうのが多い。5つあったら1つは必ずこういうのがあって足元をすくわれる。そして私はそう言う短編が好きだ。

「末摘花」は光源氏そのまま。主人公は光源氏(多分)ていうか、「源氏物語」が全編こんな感じだったら、私は光君にむかつきすぎて投げ出すことなく、最後まで読み通すことが出来ただろう。何故かビジュアルイメージは『パタリロ源氏物語!』で脳内再生された。

「先生との旅」は、内田百閒の「尽頭子」に何となく雰囲気が似ているような似ていないような……「先生」というキーワードだけかも知れないが。


……今、この瞬間にひらめいたんだが、「ゴランノスポン」って、「ご覧のスポンサーの提供で云々」から来ているのか?
いや、帯に「コノバングミハ。」って書いてあって、最初意味分からなかったんだけど……「ゴランノスポン」の雑誌掲載時のタイトルは「ホワイトハッピー・ご覧のスポン」だったって言うし……だが、この作品に何故このタイトルがつけられたのかは一向に分からない。
三熊野詣 (1965年)
三熊野詣 (1965年)
三島 由紀夫
新潮社 1965


神保町の古本祭で入手。文庫にはなっていないので、現在は入手困難である模様。しかし収録作品は、別の短編集に入れられたりしていて、結構読めそう。

収録作品は、「三熊野詣」「月澹荘綺譚」「孔雀」「朝の純愛」の四編。
後書きで三島自身がこう書いている。
この集は、私の今までの全作品の家で、もっとも退廃的なものであろう。私は自分の疲労と、無力感と、饐え腐れた心情のデカタンスと、そのすべてをこの四篇にこめた。四篇とも、いずれも過去と現在が先鋭に対立せしめられており、過去は輝き、現在は死灰に化している。「希望は過去に布かない」のである。


それが一番顕著に表れているのは、今はもう焼失してしまった屋敷跡を訪れた男が、当時その屋敷に出入りしていた老人の話を聞くという「月澹荘綺譚」よりも、実は「孔雀」の方ではないかと思った。ある動物園で飼われていた孔雀が全て殺されるという事件が発生し、その前日に長い間一人で孔雀の折を眺めていた主人公の元へ刑事が話を聞きにやって来る。主人公は孔雀という鳥にいようとも言える執着を持っており、部屋中が孔雀の剥製や置物などで埋め尽くされている。その中で、ひときわ異彩を放つ美少年の写真に刑事が目を止める。「ああ、それは昔の私です」
かつては美少年だった主人公に当時の面影は全くなく、刑事は驚きを隠せない。それが主人公に孔雀への執着を抱かせたのかも知れない。主人公は思う「孔雀は殺されてこそその美を完成させる生き物ではないのか」
数日後、再び刑事がやって来て犯人が分かったと告げる。傷口の状態などから判断して、孔雀は野犬に殺されたと言う。だが主人公は違う、と断言する。犯人はまた必ず現れると、事件後新たに動物園に連れてこられた孔雀の張り込みへと刑事を誘う。
そして深夜、主人公と刑事の前に、野犬を引き連れた犯人の姿が現れる。言葉を失い、呆然と立ち尽くす二人の前に現れた犯人は―――

なんか、他の作品に比べれば何となく地味な「孔雀」が、実質一番業の深い作品なのではないかとちょっと思った。陰惨さという点で言えば、「月澹荘綺譚」に勝る作品はないのだが。「月澹荘綺譚」は何とか探して一読をお勧めする。

今は焼失した屋敷、月澹荘の持主で夏の間だけやって来る男は、「ものを見る」事に異様な執着を示していた。何事に対しても常に一歩退いて「観察」している。そんな彼と夏の間だけとはいえ幼馴染みのように育った使用人の息子勝造は、彼の性質を知りながら、彼に逆らうことは出来なかった。
あるとき、結婚を翌年に控えた彼は勝造を呼び出し、残酷な要求をした。村に住む白痴に乱暴しろと言ったのだ。勝造がそれをしている間、彼はいつものように押さえつけられた娘の顔をじっと見ているだけだった。
そして結婚二年目の夏、妻を伴って月澹荘にやって来た男が死んだ。一周忌、再び一人で月澹荘を訪れた妻は勝造から全ての話を聞き、一人で帰って行った。その後すぐに、月澹荘は焼け落ちた。
短編でオチが重要なので余りかけないのだが、これはラストが素晴らしかった。予想は出来るけど、完璧なラスト一文で作品のクオリティがぐわっとあがっている。これは読むべき。

三島の短編は、長編と比べていまいち……と思ってたけど、認識を改めた。やっぱり凄いものは凄いのだった。
あと、内容とはあんまり関係ないんだが、本文の紙がOKフールスかなんかだった。金かけてるなあ、と思ったけどこれ発売当時の値段が箱入りで400円……まあ当時のレート知らないけど……
水の女 (講談社文芸文庫)
水の女 (講談社文芸文庫)
中上 健次
講談社 2010-07-09


なにやら〈中上健次らしい〉短編集だった。「緊密な弾力のある文体で製の陰翳と人間の内部の闇を描破した中上文学の極北」だそうだよ、裏面の解説によると……
舞台はおそらく全て紀伊。路地物、の一部として考えてもいいのかもしれない。ただ、オバや蓮池は出てこないので、あくまで路地っぽい感じ。

男性目線の「赫髪「水の女」「かげろう」、女性目線の「鷹を飼う家」「鬼」の五編が収録されている。基本的には、ずっとセックスしてる描写が延々と続く……と言ってもポルノ小説でもないのでエロい訳ではないがエロティックではあるわけで、通勤電車の中とか、小学生が遊んでいる公園とかで読んでいると妙に恥ずかしい気分になったりした。セリーヌの『夜の果てへの旅』とか読んでるときも同じような気分になったものだが……

短編なので、ラストが投げっぱなしと言うか、いきなり落ちるというか墜落感のあるものが多くて疲れた。いや、それが短編の醍醐味だとも思うんだけれども、秋幸三部作とかかなりの長編を読み終えたときとはまた違う、いきなり自分がその世界から強制射出、もぎ取られてしまった感じが強すぎて結果その作品をいつまでも忘れられないという作者にしてみればしてやったり、みたいな感じになる。

でも正直、女の業とかよく分かんないんだよなあ、と思いながら読み進めていた。あくまで他人事、ああこんな人生もあるのかなあ、と一歩退いた感じで読んでいたので、なんだか中上健次に申し訳ない気もする。もうちょっとよく分かるようになってから再読したい。
ドクター・ラット (ストレンジ・フィクション)
ドクター・ラット (ストレンジ・フィクション)
ウィリアム・コッツウィンクル
河出書房新社 2011-03-16


帯に高橋源一郎のコメントがあったし、「悪意に満ちた幻の名作」みたいなことが書いてあったので、何の予備知識もなく読んだ。読まなきゃよかった。

大学の研究室で、増やされ、何の意味があるのかもわからない残酷な生体実験を受け続けるラットたち。経過観察のためオーブンに放り込まれる子猫たち、熱中症研究のために高温のガラスの中で延々と走らされる犬、ぴったりした防止に熱湯を注ぎこまれる兎……卵を産むためだけに十四か月間生きている鶏、とさつ場へ送られる子豚……動物実験だけではない、我々の生活のすぐ裏側で残虐に奪われ続ける<人間以外の>動物の命……

そんな中、動物たちが立ち上がる。不思議な懐かしいにおいに誘われて、飼い犬たちは飼い主の手を離れ、ジャングルの動物たちはサバンナを目指して疾駆する。動物たちに目覚めた自我は、人間の手でもてあそばれ、殺されることを拒絶し、「大集会」を開く。あらゆる動物が、一つの意思のもとに集まる大集会……それは世界各地で起こり、人間はパニックに陥ることになる。

そんな中、人間の唯一の味方となったのは、とある大学の実験室にいる一匹のネズミ、ドクター・ラットだ。ドクター・ラットは、生まれてすぐに迷路実験を受け、発狂した。完全に狂ったネズミであるドクター・ラットだけが、動物たちの大集会に反抗し,「死こそは解放なり」というスローガンのもと、反乱を起こそうとするラットたちを殺しまくる。

帯には「味方」って書いてあったけれども別に彼が何をしてくれるわけでもない。大集会、すなわち圧倒的な数で一堂に集まった動物たちに人間は何をするか。サバンナで、ライオン、象、サイ、猫科の大型獣やサルの集団に何をするか。

結局物語は悲劇でしか終わらない。何が言いたいのかといえば、「動物実験、だめ、絶対」ってことだろう。動物好きは本当に読まないほうがいい。現実では、自分がかわいがっている犬や猫やハムスターと同じ仲間がある一部の施設ではどんなに残虐な扱いを受けているか、そこから目をそらしたくないという強い意志があれば別だが。私はそらしたい。知ってるけど。この本に書かれている実験はフィクションだろうが、まあ似たようなことは実際行われている。
動物実験反対、とか言って、化粧品とかはなるべく「動物実験してません」って掲げているメーカーのものをつかってるけど、でも肉は食べるしね。動物には自我がない、って希望的観測のもとに成り立ってる部分は確かにある。でも猫飼ってる。猫はかわいい。動物実験によくつかわれるのも猫だ……

考え始めるときりがなく、今までなんとなくスルーして目をそらしてきた現実が、いきなり予備知識なく読んだこんな本で目の前に出てくるなんて聞いてない。考えたくないなあ。でも現実なんだよなあ。


この本、30年以上前に書かれたものらしい。あとがきを読むまで全然気づかなかった。普通に新刊かと思っていた。つまり、現実は30年以上前から変わっていない、動物実験や食肉市場にかかわる現実は全く色あせていないのだった。動物愛護の法律はいろいろ改正されてるだろうけど、それだって研究室に一歩は言ってしまえば関係ないでしょ。でもなあ。結局堂々巡りになるのでこのあたりでやめたい。できれば読んだこと自体を忘れたい。

SFとしては名作なんだろう。面白かったし。でも動物好きは読まないほうが絶対いい。特に犬、猫、兎系のかわいい動物好きは……動物実験をしない薬が飲めるのか、って言われても困るけど、人体実験はだめで動物実験がいいっていうのは、要するに動物がしゃべれないからだけだと思うけどなあ。
自分でやるかやらないか? と問われたら絶対やらない動物実験。そして、肉を食べたかったら自分でやれ、と言われたら私はベジタリアンになるかもしれない。だが絶海の孤島に置き去りにされて、食料が何もない、となったら兎でも何でも食べるかもしれない。そのくらい不毛な議論だと思うけど、それでも心にチクチク引っかかる。やっぱり読まなきゃよかった。読んで後悔した作品は久しぶりだ。

何度も言うが、動物好きには絶対にお勧めしない。肉好きは読んでおけ。