コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))
コレラの時代の愛 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1985))
ガブリエル・ガルシア=マルケス
新潮社 2006-10-28


51年と9ヶ月と4日、男は女を待ち続けていた……。
夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきたという男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた。

ガルシア=マルケスは面白い。文学なんだけど、難しいし長いんだけど、それでも面白い。

フェルミーナ・ダーサとフロレンティーノ・アリーサは、10代の頃に出会って、熱烈な恋をした。しかし、二人が直接顔を合せたことはほとんどない。彼等は手紙のやりとりの中で愛を育て、結婚の約束をした。だが、上流階級の男との結婚を望むフェルミーナ・ダーサの父は、フロレンティーノ・アリーサとの結婚を許さなかった。彼等は引き裂かれ、やがてフェルミーナ・ダーサは彼女に一目惚れして求婚してきた医者フベナル・ウルビーノ博士と結婚する。彼女は三人の子供に恵まれ、町の名士の妻として何不自由なく、たまには喧嘩もしながら、幸福な人生を歩む。

フロレンティーノ・アリーサはしかし彼女への思いを忘れられず、様々な女性と秘密の関係を持ちながらも、結婚せず、ただフェルミーナ・ダーサの伴侶であるフベナル・ウルビーノ博士が死ぬのを待っていた。その時こそ彼女に告白しようと、ずっと待ち続けていた。その間、51年と9ヶ月と4日。

そして、フベナル・ウルビーノ博士がオウムを追いかけてマンゴーの木から落下して不慮の死を遂げた葬儀の夜、彼はフェルミーナ・ダーサの前に現れ、こう言う。「わたしはこの時が来るのを待っていた。もう一度永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思っている」

しかし、これはまだ物語の序章に過ぎない。物語は、彼等三人の人生を、まるで映画を観ているように時間も場所も飛躍しながら紡ぎ出す。最後の瞬間に向かって、走馬燈のように流れてゆく人生の時間を、物語は余すところなく描ききる。

今回、ガルシア=マルケスはやけに「神の視点」から物語を語っている。世界を鳥瞰して、時代も季節も行ったり来たりしながら、フロレンティーノ・アリーサとフェルミーナ・ダーサの、ある意味ファンタジックな関係を語ってゆく。時間軸を行き来するその語りに慣れるまでが大変なのだが、慣れてしまえばこんなに面白いことはないわけで。読者はこの作品を読みながら、三人文の半世紀以上にわたる人生を疑似体験できるわけだ。だから読んでいると大変疲れる。誰か一人に肩入れをするのではなく、三者三様の視点から三人分の人生を交互に生きる……これほど贅沢なことはないだろう。

そして、ラストへ渦を巻きながら落下してゆくこの感覚。最後の1行を読んだときにはぞくぞくした。この旋律にも似た感覚は、502頁にわたる物語を読み進めてきたからこそ味わえる物だと思う。
短編小説のオチは重要だが、実は長編小説のオチ、と言うかラスト1文は、それ以上に重要な物なのかも知れない。登場人物たちと額を付き合わせていた時間の集積が、そこで一気に解放されるような、物語の崖から突き落とされるような、そんな感覚は、長編小説でしか味わえない物だと思う。
マルカム・ラウリーの『火山の下』もそうだった。そこに辿り着くために長くて険しい道を掻き分けて歩いてきたんだなあ、と言う感慨と、物語が終わってしまう寂しさと、いきなり足下にあった地面が消失してしまう恐怖感。やっぱ長編小説すごい、というか、ガルシア=マルケスの物語りっぷりがすげえ。

正直、50年待ってました、と夫が死んだその日に言われたらちょっとドン引きだし、フロレンティーノ・アリーサは現代で言うところのストーカーそのものなんだけど、何となく憎めない。老いてなおツンデレのフェルミーナ・ダーサも憎めないし、彼等を取り巻くすべての人々が魅力的に描かれている。だからこそ、ラストシーンの衝撃がある。いや、このラストはいい。これ以上ない結末であるような気がする。もともとストーリーテラーとしてのガルシア=マルケスは半端なく凄いけど、この結末は素晴らしい。

木村榮一の訳も良かった。読んで良かったと思う。長編を読む時間と労力を費やすだけの価値がある本だった。
崖の上のポニョ [DVD]
崖の上のポニョ [DVD]
宮崎駿
ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント


やっと見てみた。映画公開時から色々予備知識は手に入れていたのだが、何となくまあいいやと思っていて……

全体的には、「ジブリだなあ」という感じ。津波の魚がとぅるんとしててものすごく可愛かった。反面、『紅の豚』でアドリア海を描いたのと同じ会社だとは思えないほどのデフォルメされた波……今回は全部手書きだったと言うが、確かにCGを使っていたら、あの津波のシーンとかの凄惨っぷりが半端なかったように思うので、陰惨さ・凄惨さをオブラートに包むためには手書きの柔らかい線がどうしても必要だったのかも知れない。

ポニョに関しては、様々なサイトで様々な解釈がなされている。おおかたで共通しているのが、宗介とポニョがリサを捜しにひまわり(老人ホーム)へ向かう途中で通ったトンネルが産道=異界への入り口であり、船上で出会った人々は被災者ではなくて被害者だった、と言う説。まあ赤ちゃん抱いたお母さんが普通に半魚人になってるポニョを受け入れたり、お父さんの方が宗介の巨大化したおもちゃの船をみて「いい船だなあ」なんて呑気なことを言ってたり(普通子供二人で漂流してたら助けるよな? しかも知り合い)なんかみんな……文字通り「浮世離れ」しているというか、現実にある日本を舞台にしているのであればひどく違和感のあるシーンがいくつもあった。これを「ファンタジー」あるいは「童話」にしたかったのか、宗介とポニョがいるのはあくまで視聴者が生きているこの世界として描きたかったのか、いまいち分からず中途半端な印象だけが残ってしまった。

あとは、ひまわりに残ったリサと老人たち。ポニョの父・フジモト(元々は人間だったが嫌気がさして魔法使いにジョブチェンジ? どうやって? あとあの服は趣味なの?)がクラゲドームで助けてたけど、いきなり車椅子要らないくらい走ってるし、一瞬「ああばーちゃんたちはみんな死んじゃったんだ……!」って思ってぎくりとした。あれ、普通に大昔からある「死後の世界」の描き方でしょ? トキさん(ツンデレばあちゃん)だけがフジモトの助けを拒否して持主のいなくなった車椅子と一緒に避難所の公園に残り、宗介を助けたシーンって、あれはきっと意味があると思う。あの時生きてたのはトキさんだけだった、って解釈も成立すると思う。で、宗介と一緒にクラゲドームに連れて行かれて死ぬ→歩けるようになる→ツンデレだったのにみんなと仲良くなる! あの世ではみんな幸せ! 死んでも幸せだからまあいっか!(その時点でトキさんは思考停止、楽しく暮らし始める)(でもそれはとても恐ろしいことだと思う)

大体、フジモトは自分で生命の水とか生成して海を太古の状態に戻して人間の世界を終わらせようとか何とか前半で独り言言ってたんだから、ポニョが魔法を解放したことでその予定が少しばかり速まったところで慌てる必要は何もないと思うんだが。なんでフジモトは人間を助けようとしたんだろうな。あと、あのポニョの妹たちらしい小さい奴らは、成長したらそれぞれがポニョの大きさになるんだろうか。だったらどうしてポニョだけが今現在特別な大きさだったのか。同時期に生まれたはずの他の姉妹は? みんな死んだの? 魚は淘汰を前提として大量の卵を産むはずだ。全然関係ないけどポニョの父親がフジモトだってことは、フジモトはやっぱり卵に向かって射精したの?

世界観の解釈としてはここのまとめが面白かった。映画公開時のスレなのに、良くみてるなあと。あれだけ宗介を心配していたリサが、いきなり宗介とポニョを置いてひまわりに行くって言い出した理由とか。普通子供をあんな所に置いていかないよな、普通の母親なら……。
あとは、別のサイトだけど、「ポニョの母とリサが真面目な顔して話してたのは今後のポニョの養育費のこととかじゃね?」ってのが面白かった。いきなり世俗的wwwでも(ポニョが宗介の世界で)生きてく上では大事……

ポニョ公開時、「面白いけどなんか怖かった」という感想を見て「?」って思ってたんだけど、今ならその理由が分かる気がする。この映画はメタファーで満ちているんだろう。解釈次第では(それもある程度の方向性のある解釈しかできない気がするけど)恐ろしい映画にもなり得るし、ただの宗介とポニョの小さな恋のメロディーであることも出来る。そう言う意味では、舞台が「今・現在視聴者が生きている世界」であったことも、それ故に発生した違和感も、すべて意味のある物だったのかも知れない。

色々突っ込みどころ、と言うか煮え切らない疑問だけが残る映画だったけれども、結構面白かった。魚がとぅるんとぅるんしてたし。あの波はいいなあ。そう言う物をただ「面白いなあ」と思って「面白かったなあ!」と言って見終わるのがこの映画の正しい見方なんじゃないかと思えてきた。突っ込みどころ、とか言ってしまう自分はやっぱり汚れているんだろう。

そういえば『遠野物語』って、うろ覚えで知ってはいるけど、柳田国男が書いた奴はちゃんと読んだ事がなかったな……と漠然と考えていたら、水木しげるが漫画化してた。即購入。水木しげるといえば、小学生の頃、『水木しげるの妖怪辞典』とかが愛読書で、でもあまりの怖さに「絶対読まない」と心に決めて押入れの中に封印したりしたっけなあ、と懐かしく思い出した(結局怖いもの見たさでまたページを飛来してしまってその夜は眠れない、の永久ループ)

日本の妖怪のほとんどは、水木しげるによって形を与えられたと思ってもいいと私は思っている。少なくとも、現代人が「妖怪」といわれて思い描く姿は、「ゲゲゲの鬼太郎」なんかで描かれたあの姿だろう。過去の文献があってこその水木しげるだとは思うけど、それでもやっぱり私の中で妖怪のルーツは水木しげるだったりする。

『遠野物語』は妖怪譚ではない。人間の生活に密着した『ちょっと不思議な話』(とんでもなく血なまぐさい話も多いが)だ。多分その『ちょっと不思議な話』に理由を付けるために妖怪とかそういう存在を持ってきて自分を納得させてるのかな、と思ったらそうじゃなかった。普通に受け入れている。村で行方不明になった若い女が数年後山の中で暮らしているのを発見されて『山男の妻になったから帰れない』というのを『そうか』と言っておいて帰ったり(その後の後日談はない)なんか、『不思議なことがあるのは当たり前じゃん、山だもの』みたいな空気。それが遠野物語。

結局、みんな怪異と呼ばれるものと、昔はもっと共存してたんだなあ、という感じ。山の禁を侵せば罰を受けて当たり前、狐には化かされて当たり前だし、河童は相撲が強いのは常識。では今現在、そういう空気はなくなってしまったのかといえばそうでもなく、都市伝説として都会のど真ん中に堂々と生き残っていたりする。怖いものみたさ、というか、怪異を愛する心は場所と時代が変わっても同じものなんだなあ、としみじみ思った。田舎に帰れば、普通に妖怪とかいそうだもの。鵺とか鳴いてるもの(トラツグミだけど)

幽霊とか妖怪とか、いた方が面白いからいればいいなあと思ってる。ただし、祟りに遭わないように気をつけなくちゃいけないけど。同じ理由で宇宙人も普通にいると思ってるけど、多分住民票は持ってないと思う……

女神 (新潮文庫)
女神 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社 2002-11


短編集。収録作品は『女神』『接吻』『伝説』『白鳥』『哲学』『蝶々』『恋重荷』『待童』『鴛鴦』『雛の宿』『朝の純愛』以上11編。
この中で最も長いのが『女神』で、これは、女神のような美貌を持っていた妻を『美しくする』ことだけに心を砕いてきた男が、妻が空襲で顔に醜い火傷を負ったことで激しく落胆し、今度はその美貌の萌芽を持った娘を妻と同じく美の化身に育て上げようとする話。男は娘に贅沢な生活を与えたが、教養はそこそこしか与えようとしなかった。女は美の化身であるから、絵画や芸術の『美』とされるものに触れなくてもいいのだ、と言う男の持論は、なんだか「三島だなあ」という気分になる。
娘もそれに逆らうことなく、多少面倒くさい父親だと思いながらもその生活を享受してきたが、二人の青年に出会うことによってその生活は彼女の足下から崩れることになる。交通事故に遭って片足を失った若き画家と、非の打ち所のない美しい青年が、同時に彼女に恋をする。二人の間で揺れ動きながら彼女は、彼等が隠していた裏切りに触れ、父親の元に戻ってくる。そして彼女は……
この結末は怖いなあ、と思う。一見美しいようでいて、後から思い返すとぞっとする感じ。

そのほかの短編は、かなり短いものが多い。2〜3頁で終わってしまったりして、なんだか肩すかしを食らったような気分になる。でも短いだけに、かなり強い印象が残る。特に『哲学』なんかは面白い。

借りていたアパートの部屋から、女学校の屋上が見える。あると木曽の屋上の手すりの上を、一人の少女がバランスを取りながら歩いているのを男は見掛ける。ふらふらと、空を切り取った細い手すりの上を歩く少女の姿が目に焼き付いて勉強が手に付かない。ある日男は散歩の途中、その少女が男と二人、仲むつまじく歩いているのを目撃する。さらに勉強が手につかなくなった男はとうとう我慢できずに、少女の家を突き止め、一通の手紙を書く。このままでは俺は駄目になってしまうから、屋上の手すりを渡るのを止めるか、男と付き合うのを止めろと迫る。その選択は貴女に任せる、と男は書いた。
数日後、男は再び屋上の手すりを渡る少女の姿を見る。その時、男の胸の内に「落ちてしまえ、落ちて死んでしまえ」という少女に対する憎悪が生まれる。
そして翌日、男は自殺死体となって発見される。男のノートには「彼女の死を選択したことは、よく考えてみると、俺自身の死を選択したことでもあったのだ。人生よ、さらば!」

なにやら含みがあるような、ないような……まあこんな手紙もらったら怖くて破り捨てるかストーキングの証拠になるから保存しておくかどっちかだと思うけど。

読んでる最中は、なんかリズムに乗りきれなくて「……」みたいな気分だったのだが、読み終えて落ち着いてみると、かなり強い印象を残す作品が多かった。タイトルと内容がきっちり結びついているというか、目次のタイトルの羅列を読んでいるとその作品が透けて見えてくると言うか。『朝の純愛』なんかはタイトルと全然リンクしてないような内容なのになあ。

三島はやっぱり長編が好きだけど、短編も結構捨てがたいのかも知れないなあ、と思った。長編が上手い作家は当然ながら短編も上手いのだろう。短いから逆に、三島エッセンスみたいなものが濃縮されている感じがする。ダイレクトに肌に刺さってくるような鋭さがあると思う。三島すげえ。
IT〈1〉 (文春文庫)
IT〈1〉 (文春文庫)
スティーヴン キング
文藝春秋 1994-12


最も多感な14歳頃に読んでしまったスティーヴン・キング。一番始めに読んだ『IT』こそが至高のホラー小説だと、実は今でもちょっと思ってる。読み返してびっくりしたのは、まず、『メイン州・デリー』という街が存在しなかったこと。中学生の私の中ではあんなにも生き生きとしていた街が、すべて作者の頭の中にだけ存在していたとは……まあ、確かにラストで崩壊する街ではあるんだけど、この存在感、人生の半分以上の期間を騙され続けた、この圧倒的な存在感。

どもりのビル・デンブロウ、デブのベン・ハンスコム、悪たれリッチィ・トージア、喘息持ちのエディ・カスプブラク、ユダヤ人のスタン・ユリス、デリーで唯一の黒人マイク・ハンロン、そして貧しいアパートに住んでいるが美しい少女ベヴァリー・マーシュ……彼等は「はみだしクラブ」だった。彼等は親友だった。偶然が彼等を出会わせて、彼等を強い力で結びつけた、それは理屈ではなく、本能のような力だった。
1958年、ビルの弟のジョージィが殺された。大洪水の後、黄色いレインコートを着て、ビルが作った紙の船を側溝に流して追いかけていたジョージィは、左腕を引き千切られた。排水溝の中、風船を持ってにやにやと笑うピエロの姿をした者に。
その年、デリーでは沢山の子供が殺された。はみだしクラブの少年少女たちは、犯人を知っている。それはピエロ、あるいは狼男、瘡っかきのホームレス、巨大な鳥……様々な姿を取って彼等の前に現れるもの、「IT(あいつ)」としか呼びようのないものだ。

彼等は、「IT」を倒した。そして、約束をした。もし「IT」が死んでいなかったら、また舞い戻ってきたら、今度こそ「IT」を殺そう、必ずまたここへ戻ってきて、今度こそあいつを倒そう……そして27年の時が流れ、唯一デリーに残ったマイク・ハンロンから連絡が来る。「また始まった。来るか?」

ビルは小説家になり、ベンはダイエットに成功して建築家になった。リッチィは何種類もの声色を使い分けるディスクジョッキー、エディはリムジン会社経営、スタンは有名な会計士、ベヴァリーはデザイナーとなって、皆その分野で成功し、金も名声も手に入れた。それは順調すぎる人生だった。ただ、彼等のうち、誰一人子供がいないことを除いては。
彼等は、マイク・ハンロンからの電話を受けたその瞬間まで、デリーで過ごした子供時代のことをすっかり忘れていた。自分がITと戦ったことも、どうやってあいつを倒したかも、なぜ記憶を失い、それを疑いもしなかったのかも。
だが、彼等は戻ってきた。何か強い力に引き寄せられるように。ただ一人、電話を受けた直後、浴室で手首を切って自殺したスタン・ユリス以外は……


物語は、1958年と現代を交互に行き来しながら進行する。子供たちは、子供たちなりの方法で、あいつに立ち向かう。そして勝利する。だが、大人になった彼等には、あの時のような力はもうないのかも知れない。それでも必死に、彼等は立ち向かう。あの時の約束を果たすために、殺された弟の敵を討つために、仲間のために。

あっれー、なんかこの構成ってどっかで……と思ったら、思い出した。『20世紀少年』そのままじゃないか。もちろん『IT』の方が断然早いんだが。私が妙に『20世紀少年』が好きだった理由がやっと分かった。『IT』が好きだったんだ、全然忘れてたけど。

中学の時に読んで、衝撃は大きかった。今読み返してみると、なんだかはみだしクラブの面々が、まるで懐かしい昔の友達みたいな気分になってくる。やはりここでも圧倒的な存在感で、私の中にあったんだろうな……そして今でもピエロは怖い。これは映画版の方だが、映画のペニーワイズ(ピエロ)はとんでもなく怖かった(まあ映画の方のラストは正直どうなのよ、と思ってるけど……)(原作に忠実といえば忠実だったんだが)

なんだろう、ホラーなんだけど、なんか青春小説みたいな感じ。懐かしさ、とかノスタルジアまで感じるような。それだけ昔の自分は物語世界に入り込めてたのかも知れないけど。ただ同時期に読んだ『ダーク・ハーフ』とか『シャイニング』にはそんな感覚はなくて、ただ「面白かったなあ」と言うだけなんだよな。この差は一体何だろう。やっぱり、はみだしクラブの面々に自分を重ねていたんだろうか。友達、いなかったしな……羨ましかったのかも知れんね……フィクションで補完するしかなかった青春、と言うか、その対象が長編ホラー小説ってどうなのよ、とも思うけれども……

この物語の結末は、「20世紀少年」みたいに投げっぱなしではない、きちんと終わる。それは一抹の寂しさもある。本を読みながら作り上げてきた世界ががらがらと崩れるような、ゆっくりと緞帳が下がって照明がついて、ふっと自分の両手を見下ろした瞬間のような。物語の終わりというのは寂しい、それが面白い物語であればあるほど。そしてこの物語は面白い。でもこの終わり方は嫌いだ、美しいけれど。みんな忘れてゆく、登場人物でさえも。彼等は皆忘れてゆく、自分たちの間にあった友情も何もかも。忘れてしまって悲しいことすら忘れてしまう。ある意味、この物語の中にあったどんなに恐ろしいシーンよりも、恐ろしいラストシーンが待っている。

分厚い文庫が4冊、正直長すぎると思うが、読んでいるとそんなことは気にならない。面白いから、どんどん次の頁をめくる。そして物語が終わらなければいいと思う、そんな小説だった。まあ、特別な思い入れがある本だから、かなり美化してるところはあるかも知れないけど。長いから、と敬遠するのはもったいなさ過ぎる。ホラー好きなら読んでおいた方がいい。そして久しぶりに映画も観たくなったな。例えラストでものすごい脱力感に襲われようとも。映画はペニーワイズを楽しむためのものだからね……